
英語力と複眼的・論理的思考
大杉先生には、大学はもちろんのこと、長年にわたるNHKの英会話講座の「教え子」たちがたくさんいる。自称「劣等生」がたくさんの教え子を持つようになった転機は、高校時代に出会った英語の先生の特訓だったという。これをきっかけに英語へ進路を選択し、大学では、英語と闘い、英語を楽しみ、英語と共に生きた英語一色の青春時代を過ごした。不断の努力の末、現在のような教える立場になったことを一番驚いているのは、ご本人かもしれない。将来を決定づけた青春期のお話を語ってくださった大杉先生はとても若々しく、少年のような雰囲気さえ感じられたのが印象的だった。
大杉正明(おおすぎ・まさあき)1947年静岡県伊東市生まれ。清泉女子大学・大学院教授。専門は英語学、応用言語学。'87年〜'98年までNHK「ラジオ英会話」の講師を務め、'98年イギリス・エクセター大学客員教授。2002年〜'04年までNHK教育テレビ「いまから出直し英語塾」でパブのマスター役にふんし、人気を博す。'05年からNHKラジオ「ものしり英語塾」の講師を務めている。主な著書は『Hopes, love and dreams in New York』、『このひと言で伝わる! NHKラジオ英会話一発表現300』(共にNHK出版)、『NHKラジオ英会話リスニング・テキスト What's New?』シリーズ、『イギリス英語はおもしろい』(共にDHC)、『イギリス英語リスニングCD』(アルク)など多数。テニス、ジャズ、映画、ドライブなど幅広い趣味で人生をエンジョイしている。
「観察」と「まね」は、語学上達の必須プロセス
―小学生のころから1人で映画館に通われ、洋画をたくさんご覧になったそうですが。 大杉:いじめられっ子だったので学校へ行くのが嫌で、4年生くらいからかな、朝、小遣いを持って家を出るとそのまま映画館へ行って、暗くなるまでいました。切符売り場の人に学校へ行かないのかと言われたりしましたが、そのうち顔なじみになるとタダで入れてくれるようになりまして。一種の現実逃避だから、そのころの自分の境遇や現実と大幅に違う映画のほうがよくて、アメリカ映画がそれにふさわしかったんです。見たことのない大きな車や冷蔵庫のあるアメリカの生活を知り、アメリカ人のように英語を話したい、アメリカに行ってみたいというあこがれが芽生え、英語やアメリカ文化に向かわせた間接的な理由になったと思います。 小学生だから字幕の漢字も読めないのですが、必死で推測して、結構日本語の勉強にもなりました。ジョン・ウェイン、ゲーリー・クーパーなどの西部劇が好きで、英語をよくまねしていて―といっても耳から覚えたでたらめな英語ですが―友達に「大杉、英語しゃべれよ」と言われる、とインチキ英語でベラベラしゃべってました。昔タモリさんが4カ国語マージャンというのをやっていましたが、まさにあれです。いじめられないようになりたい、クラスの人気者になりたいという、僕なりの生き残り法だったと思います。 まねをするというのは、後に洋楽をまねして歌うようになることに通じますが、まねする前に、観察することが重要なんです。外国人が話す際の身振り手振り、表情、声、使う言葉の種類や発音の特徴、イントネーションなどをよく観察して、それを模倣して、自分に取り入れるんです。外国語を学ぶ基本はトータルな観察力です。「聞くだけでなく、見るものすべてによく注意せよ、観察力を養わないと外国語は上達しない」と大学の学生たちには言っています。 |
外国語を学ぶ基本はトータルな観察力です |
徹底的にしごかれた高校時代の英語の特訓
―中学生になってからはテレビでアメリカのドラマをよくご覧になったそうですが、英語のターニングポイントは高校時代でしょうか 大杉:われわれ団塊の世代は、中学のころにテレビが普及し始め、『パパは何でも知っている』、『ララミー牧場』などのアメリカのドラマが盛んに放映され、よく見ていた世代なんです。高校に入ってからは、50年代のアメリカンポップスがたくさん流れ込んできました。歌は大好きなので、友人の家の倉庫に集まっては、レコードをかけて聴いていました。さっきの観察力じゃないですが、聴くときは集中してよく聴いて覚えました。自分のレコードではないし、歌詞カードもなかったから、聞こえてきた音を覚えて後で歌うんです。 うろ覚えの歌詞を適当にカタカナにして自分で歌詞カードみたいなものを作り、どういう単語か、どういう意味なのか、どこで区切るのかさえもわからないまま、「♪チューチュートレイン チャギンダウンザトラック」(と、大杉先生、『恋の片道切符』を口ずさむ)と歌うわけです。後年、“choo choo train a chuggin' down the track”という正しい歌詞を知ったときに、案外正しく覚えていたんだなと、われながら驚きましたね。当時は、trackに線路の意味があるなんて知らないから車かな、列車の歌なのにヘンだな、と思うのですが、わからない単語は辞書で引くとか、そういうまじめな学生がやるような努力はひとつもしなかったんです。とにかく学校の授業のような勉強はしなかったし、英語も成績がよかったわけでもなかったんですね。 でも、ついに勉強せざるを得ないときがやってきました。高校1年から2年間、露木先生という英語の先生から、無理やり英語の勉強をさせられたのです。教科書とは別の副読本のような小さい冊子に、左ページに英文、右ページに訳が載っていて、全部で200文。すべて5文型にのっとった英文です。これを徹底的に暗記、暗唱させられた。授業前の10分くらいを使って、先生に指されたらすぐに答えなきゃいけないんです。露木先生は眼光鋭くシャープな感じで、怖い先生でした。生徒をひっぱたくこともありました。当時は傘で頭をなぐる、ビンタを張るなんていう体罰が平気な時代でね、今なら新聞ざたですよ。 小学生だから字幕の漢字も読めないのですが、必死で推測して、結構日本語の勉強にもなりました。ジョン・ウェイン、ゲーリー・クーパーなどの西部劇が好きで、英語をよくまねしていて―といっても耳から覚えたでたらめな英語ですが―友達に「大杉、英語しゃべれよ」と言われる、とインチキ英語でベラベラしゃべってました。昔タモリさんが4カ国語マージャンというのをやっていましたが、まさにあれです。いじめられないようになりたい、クラスの人気者になりたいという、僕なりの生き残り法だったと思います。 僕なんか家で一度も本を開いたこともないような生徒でしたが、とにかく怖いので、生徒みんなが必死で覚えました。今でも覚えていますが、1番目が“Fire burns.”、S+Vの第1文型、2番目が“Flowers are beautiful.”、S+V+Cの第2文型です。100番を越すと、どんどん複雑になるんですよ。“If the sun were to rise in the west, I would not do such a thing.”とかね。“Fire burns.”なんて一生使わないような英語で、役に立ったかどうかは別ですが、ちゃんと勉強したことのなかった僕の頭に、生まれて初めてまとまった200の英文が入った。私の中で唯一頼りになる英語になった。これは当時の私にとって非常に重要な出来事で、英語の勉強のスタートだったかもしれません。その後の英語の試験では、これらの英文をどう応用できるかと、いつも考えました。英語の教員になろうと思ったのも先生の勧めがあったからでしたし、露木先生の影響は大きかったですね。 |
イギリス・エクセター大学客員教授として渡英中のころ |
人生でおおいに役立った大学時代のディベート
―大学では英文科に進まれ、さらに英語への関心が高まったのでしょうか。 大杉:はい。高校3年のころから英語が次第に好きになり、大学では英語クラブに入りました。授業は小説や戯曲など、文学作品を読む講読が圧倒的に多かったですね。授業そのものより、最初はクラブの英語劇のためだったのですが、戯曲を読み始めたら面白くなって、アーサー・ミラー(※1)、テネシー・ウィリアムズ(※2)、ウィリアム・インジ(※3)などを読みあさりました。特にテネシー・ウィリアムズは2年間で全作品を読破しましたし、小説もサリンジャーなどをよく読みました。 この読書体験で、ずいぶんいろいろな英語がインプットされました。特に戯曲は普通の会話なので、実際に使える表現でしたから。カセットテープなど存在しませんでしたが、もし音声を聴けていたら、もっと勉強になっていたでしょうね。ほかには、NHKの「ラジオ英会話」を毎日聴き、クラブの昼休みにはそのテキストを読んで覚える練習をしました。まさか将来自分がその講師になるなんて夢にも思いませんでしたし、周りの連中も本当に驚いたと思います(笑)。 英語に対する熱意はどんどん高まっていき、後年、私の一番の財産になったのは、クラブで訓練したディベートでした。初めてのディベートは「日米安保条約を破棄すべき」というテーマで、そのときは日本国憲法を暗記しましたよ。ディベートは大学対抗戦で勝ち上がっていくトーナメント形式なんです。最初は5名くらいずつ出て、慣れてくると2名になって2対2になります。ディベートは、要するに、法廷の検察側と弁護側のようなもので、どちらが説得力をもって論戦を進められるかを陪審員役がジャッジするのです。この役はネイティブスピーカーが務めます。 例えば「死刑」というテーマのディベートだったら、賛成・反対両方の専門家の資料を読み、論理を構築しながら自分の議論を裏付けていくという準備をします。ディベート直前にならないと賛成派・反対派のどちらをやるか決まらないので、両方の準備をしておかなくてはならず、その準備や練習はものすごく大変でした。判定は論理力、説得力、証拠の有効さ、英語力などが総合的に判断されます。英語的には、普通の会話では使わないような難しく堅苦しい英語を使うのですが、このような硬い英語や文学的な英語など、さまざまな英語を勉強したことが今、生きています。 ディベートは、ある問題を両方の側から学び、公平で客観的な意見を持てるようにする訓練であり、後に個人的な意見を形成するときの大きな助けになりました。私にとって一番の収穫は、人間は往々にして偏見から抜けられないものですが、物事を両面から見ようとする複眼的な思考、そして論理的に考えるための基礎ができたことです。ディベートは、まず肯定側の「立論」で始まります。英語でconstructive speechと言うのですが、これを英語で書く練習を何度もしました。この訓練が後に英語の論文を書くときにも非常に役に立ちました。 振り返ってみると、大学時代は英語一色の生活でしたね。英語の合間に恋愛をしたり、音楽をやったり。僕たちの時代は、勉強方法が限定されていた時代でしたが、だからこそ集中して必死でやった。今はいろいろありすぎて、ある意味では不幸なのかな、なんて思いますね。 ※1)アメリカを代表する劇作家。代表作は『セールスマンの死』。
※2)同じくアメリカを代表する劇作家。代表作は『欲望という名の電車』『熱いトタン屋根の猫』。 ※3)アメリカの劇作家。代表作は『ピクニック』。 |
ディベートの訓練で、複眼的な思考と論理的に考えるための基礎ができた |
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