
英語上達の正道
英語関連のTV番組や学習誌にたびたび登場する英文学者、斎藤氏は、大学で教鞭(きょうべん)を取りながら、数々の英語学習法の著作や多彩なジャンルの翻訳を手がける、まさに英語学習者の頂点を極めたような達人だ。初めて英語を習った私塾の先生と中学時代の英語教師は、ともに英語の達人であり、優れた教育者でもあったという。その影響を受け、氏も中学生のときから英語の教師を志し、日本の大学の最高峰である東大で夢をかなえた。英語道をひたすら歩んできた氏の勉強法の根幹は「文法・読解」であり、地道な積み重ね学習の継続こそが上達を支える原動力だった。岡倉天心をはじめとする英語達人の研究から見いだした、英語学習の正道を提唱する氏に、英語に関するさまざまなご意見をうかがった。
斎藤兆史(さいとう・よしふみ)1958年栃木県生まれ。宇都宮大学教育学部付属小・中学校から栃木県立宇都宮高等学校へ。東京大学文学部英語・英米文学科卒業。インディアナ大学英文科修士課程修了。ノッティンガム大学英文科博士課程修了。東京大学文学部助手などを経て現職。主な著書に『英語達人列伝』『英語達人塾』(中公新書)、『日本人のための英語』(講談社)など多数。英語学習の真髄を知りたい方はぜひ手にとっていただきたい。訳書は『コペルニクス博士』(J.バンヴィル著/白水社)、『イスラム再訪』(V.S.ナイポール著/岩波書店)など。ピアノ、ドラム、将棋、合気道など趣味も多彩で、「落ち着きがないと友人から言われます(笑)」とのこと。今秋、著作・翻訳書数冊を出版予定。
徹底的な文法訳読と多読を重ねた英語学習
―初めて英語に触れて以来、現在の職に就かれるまでの過程を教えてください。 斎藤:母の実家の知り合いに、東京外国語大を出た優秀な先生がいまして、その先生が宇都宮で開いた英語の私塾に小学校6年のときに通ったのが初めての英語体験でした。母には、自分は英語ができないので子どもには英語教育を、という考えがあったのでしょうね。教材は、中学英語の教科書に沿った当時の小学生用の英語読本で、中学に入ってからは文学作品をやさしくした副読本を使い、徹底的な文法訳読主義のもと、ひたすら読解です。週1回、1時間半くらいで高校3年まで続けました。いつも学校の授業の2年先を学んでいたと思います。 授業では、前半が訳読、後半が和文英訳をやり、生徒は数人いた時期もありましたが、ものすごく厳しい教え方だったので、結局私だけが残り、マンツーマンになりました。とてもいい先生でしたね。この先生は、日光に来た外国人観光客の通訳をされたり、今思えば、大学の研究者レベルの蔵書を持っていたりで、大変実力のある方でしたが、大病をして大学のポストを断念し、英語の研究者になりたいという夢を私に託したようでした。中学の方もなべて優秀な先生が多く、中でもひとり非常に優秀な先生が英語クラブの顧問もされていて、ネイティブを探してきて生きた英語に触れさせる、ということもしてくれました。 私はとにかく英語に関するものなら何でもやりました。高校時代の英語の勉強はひたすら辞書を引きながら原書を読むばかりで、大学受験の勉強は特に何もしませんでした。今でもそうだと思いますが、受験といっても特殊なテクニックとかは必要ないんですよ。大学での専攻の英文科でも、ひたすら辞書を引き引き読解です。ただ、英語学習とは違って「文学」という視点が入ってきますから、作品を評価する目を養う勉強が主眼で、大学院に進んだのは、もう少し深く英語を研究したいという気持ちからでした。自分の人生を決めかねるモラトリアムでもあったのですが、とにかく英語をやり続けていけば、どこかで道は開けるだろうと思っていましたね。 大学に職を得てから、アメリカのインディアナ大学、その後、イギリスのノッティンガム大学に留学しました。英語圏でどのような英語が使われているかを知れたのは大きかったですし、専門的な研究の最先端に触れることができたのが一番の収穫でした。留学時代も勉強づけで厳しかったのですが、博士課程を終え、現在に至っています。 |
従来の文法・読解中心の教育が日本人の英語力を阻んできたというのはとんでもない間違いです。 |
英語学習における5つの重要性
―ご自身の体験と、英語を教える立場での経験からだと思いますが、先生は「素読・暗唱・多読・文法解析・作文」の重要性を説かれています。その根拠を教えてください。 斎藤:素読・暗唱は、「読書百遍、意自(おの)ずから通ず」といわれるように、それによってリズムを身につけ、やがて内容の理解へと進む語学学習の基本のひとつです。多読は、これを経ずして高度な英語力の養成はなく、英語達人になるための必須条件といってもいいでしょう。 また、文法は非常に重要な要素です。最近は「従来の文法・読解中心の教育が日本人の英語力を阻んできた。文法の間違いを恐れずコミュニケーションしよう」という風潮が強いのですが、とんでもない間違いです。成果が上がらなかったとすれば、それは文法・読解の訓練が不十分だったためです。英語が構造上、日本語と全く異なる言語である以上、学校教育だけでは英語を使いこなせるようにはなりません。 そして、作文は会話能力にかかわるもので、これを習得しないと英語を習得したとは言い難い高度な技術です。一般的に、聴ければ話せる、読めれば書けると言われますが、それはかなり初期の段階です。科学的な根拠があるわけではないのですが、私自身の経験から、内容が高度になればなるほど、難しい英語を聴いて理解することと、読んで理解することは、非常に近い頭の働きをしている。つまり聴解能力と読解能力は非常に密接な関係にあります。 しかし、何か高度なことを話して伝えたいときは、いくら聴いたとしても、それだけではしゃべることはできない。しゃべるためには、書くしかありません。作文によって頭の中で文を組み立てられるようになり、口に出すことができるのです。ですから、作文能力と会話能力も密接な関係にあります。 そこで、東大の新しいカリキュラムでは、comprehension=「読んで聴いて理解する能力」と、presentation=「書く・話すの生成能力」に分けるようになりました。どうもこの分け方のほうが効率がいいと、私やほかの先生方の意見が一致したからです。効率のことで言えば、とにかく基礎をしっかり学ぶ。基礎がちゃんとできていれば、外国へ行っても使えるし、そのほうが効率がいいんですよ。 |
高校生時代、むさぼるように読んだバートランド・ラッセル。東京に遊びに行った際、洋書屋でラッセルと名のつく本を買いあさり、うれしくて仕方なかったという。その原書を辞書を引きながら読んでいた |
学習の王道はひとつ。「基礎の積み重ね」あるのみ
―先生は中学生のころ、英語の先生になると決められ、それを実現されましたが、なぜそれほど英語に関心を持ち、また、どのようにして勉強を継続できたのでしょうか。 斎藤:6年生のとき、初めて英語を教わった日に、“You are welcome.”という言い方を覚え、家に帰ってから、母親の手伝いをせっせとしました。母が「ありがとう」と言ったら、この英語を使おうと思ったからです。新しい言葉を覚えることで、何か世界が急に開けるような気持ちがしました。 高校のころから原書を飽きずに読んだのは、翻訳では決して味わえない原文の味わいに引かれたからですし、英文学を読むことで、日本文学についての理解も深まりました。英語を通して、自国の文化、さらには自分自身を相対化できる目を持てるようになりました。外国語を学ぶということは、そういう役割を担っているのです。 私が勉強を継続できたのは、勉強自体が習慣化したんですね。最初は世界が広がっていくのが面白くて、英語も好きだったからですが、好きだからやる、というのには限界があります。高校時代から英語の勉強が習慣になり、英語の読書も日常化していき、やるのが普通になってしまったんです。自分が特別なものをやっていると思いながらやるのではなく、意識せずにやるのが本当の修業であると僕は思うのですが、英語の勉強もそんな感じだったと思います。最初はつらいかもしれないけど、習慣化してしまえばつらくなくなるんですよ。 ―先生は昨今のコミュニケーション重視の英語教育の風潮にも苦言を呈されていますが。 斎藤:小学校から授業を英語で行えばいいという声も挙がっていますが、愚の骨頂です。小学校では日本語で論理立ててものを考える言語能力を養う。これが非常に重要です。そして中学から英語の文法・読解を効率的に学び、その後は各人の目的に沿った形で学ぶというのが、最善の方法だと思います。 日本語と英語は宿命的に構造の違う言語ですから、中・高6年間の教育で英語を実地で使えるようになるなんていうのは、どだい無理な話で、体育の授業をやってきたんだからスポーツ選手になれ、と言っているようなものです。 ピアノをはじめ技芸というものは、厳しい基礎訓練を重ねて初めて上達する。それが正しい道だとみんなわかっている。でも英語に関してはみんな一言あって、これが正しい方法だ、こうすれば上達すると主張し、お手軽な教材がはびこる。それはそれでいいのですが、残念なのは、そういう風潮のために本当に英語を学ぼうとする人も、それに引きずられてしまう傾向にあるということなんです。 英語だけでなく、学習の基本はすべて同じで、道はひとつしかない。基礎の積み重ねと、それを着実にこなす意志があるかどうかです。楽しみながら習得できるなんていう技術はひとつもありません。英語をマスターしたい、だけどつらい勉強や努力はしたくない。ダイエットと同じ。食べたいけどやせたい―そんなの無理だって(笑)。むちゃなことを言う人が多いから、英語もダイエットもあやしげな本や方法が出てくるんです。英語のみならず、すべてに通じる僕の大好きな言葉がすべてを言い尽くしていると思います。“Genius is an infinite capacity for taking pains.”(天才とは、無限に努力することのできる能力のことである)。 |
“天才とは、無限に努力することのできる能力のことである。” |
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